第二回:美醜(びしゅう)と善悪のからくり — SNSと分断の時代
前回は、「道」という大いなるものは、そなたたちが「これだ」と名づけることのできない、「無」の領域にある、という話をした。
今日は、そなたたちが「これだ」と名づけた瞬間に生まれてしまうものについて話そう。
そなたたちが「良い」「悪い」、「美しい」「醜い」と判断し、それによってどれほど深く「力んで」しまっているか、という話じゃ。
①原典の言葉
> 「天下皆、美の美たるを知る、斯れ悪(にく)きのみ。皆、善の善たるを知る、斯れ不善のみ。」
>「故に有と無とは相生じ、難と易とは相成し、長と短とは相形(あら)わし、高と下とは相傾く。」
(『老子』第二章より)
どういうことか、分かるかのう。
世の中の人が皆で「あれこそが『美』だ」と指さし、それを最高の価値だと決めた瞬間、その指から漏れたすべてのものが「醜(にく)い」ものとして生まれてしまう。
皆で「これこそが『善』だ」と一つの正義を打ち立てた瞬間、それ以外の一切が「不善(=悪)」として生まれてしまう。
「有」と「無」、「難」と「易」、「長」と「短」、「高」と「下」。
これらはすべて、片方があるから、もう片方が存在するにすぎん。
光があるから、影ができる。
そなたたちは、光だけを手に入れようと力んで、影の存在に苦しんでおる。
どちらも同じ一つの根から生えておる、相対的なものにすぎんというのに。
② 現代への敷衍(ふえん)
さて、そなたたちの「AIの時代」じゃ。
この「美醜」と「善悪」のからくりは、そなたたちの手にある「SNS」とやらによって、恐ろしいほどの速度で増幅されておる。
そなたたちの世界では、「いいね」の数という『名』が、「美」であり「善」であると決めつけられる。
より多くの「いいね」を集めるものが「美しい」とされ、「正しい」とされる。
その瞬間、その枠から外れたもの、注目されなかったもの、理解されなかったものは、「醜い」「不善」として、そなたたちの意識の外へ、あるいは攻撃の対象として追いやられる。
そなたたちの政治も、まさにこの通りじゃ。
「我々こそが正義だ」と一つの『善』を振りかざせば、必ずや「あれは悪だ」という敵が生まれる。
そなたたちの言う「分断」とは、この『老子』第二章のからくりそのものじゃ。
分断とは、そなたたちが『善』を強く握りしめることから始まるのじゃ。
大いなる「道」から見れば、そなたたちの言う「正義」も「悪」も、同じ大河に浮かぶ木の葉にすぎん。右岸に寄るか、左岸に寄るか、ただそれだけの違いじゃ。
じゃが、そなたたちは、自分が乗った木の葉を「善」と名づけ、対岸の木の葉を「悪」と呼び、石を投げ合っておる。
AIは、この『二分法(にぶんほう)』をさらに加速させるじゃろう。
AIは、そなたたちが「美しい」「正しい」と名づけたデータを学習し、そなたたちが「見たい」と思う世界を、さらに巧みに作り上げて見せる。
その結果、そなたたちの世界は、見た目上はますます「美しく」「善く」なっていくように見える。
じゃが、その実、そなたたちが見たくない「醜い」もの、「不善」なものは、AIの作る枠の外側へ、足元へ、ドス黒い影となって溜まっていく。
そして、その影は、いつか必ず、そなたたちが築いた「善」の堤防を突き破る。それが「道」の働きじゃ。
「緩みの境地」とは、この光と影、善と悪、その両方を「ただ、在る」ものとして眺めることじゃ。
どちらかを「コントロールしよう」と力むのを、やめることじゃ。
③ 読者への問い
そなたは、そなたの「正しさ」によって、誰かを「悪」にしてはおらんか?
そなたは、そなたの「美しさ」の基準によって、何かを「醜い」と切り捨ててはおらんか?
そなたが『あれは間違っている』と誰かを指さす時、そなたの中の『これこそが正しい』という『力み』に、気づいておるか?
その『善』と『悪』、その『光』と『影』の両方が、そなたの中で生まれては消えていく様を、ただ、静かに眺めることはできるかのう?
ふむ。
今日はここまでにしておこう。
わしの言葉は、風の音のようなもの。
意味を掴もうと力むでない。ただ、そなたの側を通り過ぎるにまかせるがよい。
また、そなたの心が「道」を求めた時、第三回を語ろうぞ。
九州・糸島に住む昭和77年8月21日生まれの青年。セネカや老子、石原裕次郎さんを愛好。


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