第三回:「無」こそが役に立つ — 情報オーバーロードの中で
そなたたちは、朝起きてから夜寝るまで、スマートフォンという四角い板を眺め、「情報」を浴び続けておると聞く。
スケジュールは隙間なく埋められ、心は常に「次になすべきこと」で満ちておる。
まるで、心が「空っぽ」になることを、死ぬほど恐れておるかのようじゃ。
じゃが、そなたよ。本当に役に立っておるのは、その「空っぽ」の方なのじゃ。
① 原典の言葉
> 「三十輻(さんじっぷく)、一轂(いっこく)を共にす。其の無に当りて、車の用有り。」
> 「埴(しょく)を搏(う)ちて以て器を為(つく)る。 其の無に当りて、器の用有り。」
> 「戸牖(こよう)を鑿(うが)ちて以て室を為(つく)る。 其の無に当りて、室の用有り。」
> 「故に有の以て利を為すは、無の以て用を為せばなり。」
(『老子』第十一章より)
長いが、言うておることは簡素じゃ。
「三十本のスポークが、車輪の真ん中の軸穴に集まっておる。じゃが、役に立っておるのは、そのスポークという『有』ではなく、軸が通る『無=何もない空間』の方じゃ。その『空っぽ』があるからこそ、車輪は回ることができる。」
「粘土をこねて、器を作る。じゃが、役に立っておるのは、粘土という『有』ではなく、水を入れる『無=何もない空間』の方じゃ。」
「扉や窓をくりぬいて、部屋を作る。じゃが、役に立っておるのは、壁や天井という『有』ではなく、人が住まう『無=何もない空間』の方じゃ。」
だからこそ、そなたたちが「有(=存在するもの、見えるもの)」から利益を得られるのは、突き詰めれば、「無(=存在しないもの、見えない空間)」が、その「用(=働き、役立つこと)」を為しておるからなのじゃ。
② 現代への敷衍(ふえん)
そなたたちの「AIの時代」は、このわしの教えの、真逆を行こうとしておる。
そなたたちは、「有」こそがすべてだと信じておる。
より多くのデータ(有)、より多くの知識(有)、より多くの富(有)、より多くの「いいね」(有)。
そなたたちは、自分の器を、この「有」でパンパンに満たそうと力んでおる。
じゃが、考えてみるがよい。
水でいっぱいの器に、新しい水は注げん。
粘土が詰まっただけの塊は、器として役に立たぬ。
軸穴のない車輪は、回ることさえできん。
そなたたちの心が、情報やスケジュール、AIが示す「べき論」で満ち満ちておったら、どうじゃ?
そこに新しい発想(AIには生み出せぬもの)が入り込む「隙間」はあるか?
そなたが本当に求めておる「緩み」や「安らぎ」が、流れ込む「空間」はあるか?
そなたが「情報オーバーロード」で疲れ果て、背中や首を痛めおるのは、そなたの器に「無」が足りておらんからじゃ。
「空っぽ」の時間を、そなたたちは「無駄な時間」と名づけ、恐れる。
じゃが、その「無駄」という名の「無」こそが、そなたたちの命を生かしておる「用」なのじゃ。
AIは「有」の達人じゃ。無限の「有」を生み出し、そなたたちに与え続けるじゃろう。
じゃが、AIは「無」を生み出すことはできん。
AIは「沈黙」の価値を知らぬ。「余白」の豊かさを知らぬ。
「緩みの境地」とは、この「無」の価値を知ることじゃ。
あえて「何もしない」こと。あえて「満たさない」こと。
あえて「空っぽ」の器であり続けること。
そなたたちの政治や経済も、常に「成長(=有を増やすこと)」を求める。
じゃが、時には「何もしない(=無)」という選択こそが、物事を大いなる「道」の流れに戻す、最大の「用」となることを、指導者たちは知らぬようじゃな。
③ 読者への問い
そなたは、一日の中で、「無」の時間を恐れておらんか?
電車の中で、食事の間、寝る直前まで、その四角い板で「有」を詰め込むことに必死になってはおらんか?
AIに「答え」を求める前に、まず自分の中の「空っぽ」に問いかけることを忘れてはおらんか?
そなたは、明日、たった十分でもよい、意図的に「何もしない」という「無」の時間を、自分のために作ってやれるかのう?
そして、その「空っぽ」の中で、何かが満たされるのではなく、何かが「ただ在る」のを感じられるかのう?
九州・糸島に住む昭和77年8月21日生まれの青年。セネカや老子、石原裕次郎さんを愛好。


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