現代に生きる「正法眼蔵」
第一回:忙しき世に「立ち止まる」こと
そなたは今、これを読む間も、次の予定や、先ほどの返信、明日の仕事のことが頭をよぎってはいないか。
今の世は、実に騒がしい。
そなたたちの手にある「すまーとふぉん」とかいう板は、昼夜を問わず光を放ち、そなたの心を外へ外へと引っ張り出す。
電車に乗れば、誰もがその小さな板に見入り、人の顔を見ることもない。
歩く速度は速くなり、食事は「作業」となり、眠りさえも浅い。
常に「何か」をしていないと、不安になる。
常に「前」に進んでいないと、取り残されると感じる。
効率、速度、成果。
それが、そなたたちの世の「価値」であるかのようだ。
わしが生きた鎌倉の世も、戦や飢饉で慌ただしかったが、今とは質の違う「忙しさ」であろう。
そなたたちの「忙しさ」は、外側の要求に応えるうち、いつしか自らが生み出した「幻」に追われるようになった忙しさだ。
便利になれば、時間ができるはずだった。
豊かになれば、心が満たされるはずだった。
だが、現実はどうだ。
かつてないほど「便利」で「豊か」なはずの世に生きるそなたたちの多くが、かつてないほどの「渇き」と「疲れ」を抱えておる。
時間ができれば、さらに多くの情報を詰め込み、さらに多くの「すべきこと」でその隙間を埋める。
まるで、自ら激流に身を投じ、必死で岸に上がろうともがいているようなものだ。
だが、その流れを生み出しているのが、そなた自身の心であることに気づいておらぬ。
禅がまず説くのは、泳ぎ方ではない。
ましてや、速く対岸に着く方法でもない。
ただ、「立ち止まる」ことだ。
流れに抗うのを、一旦やめてみる。
情報を追いかけるのを、やめてみる。
「次」を考えるのを、やめてみる。
これは「休息」や「現実逃避」とは違う。
むしろ、最も勇気の要る「実践」である。
なぜなら、そなたたちは「止まる」ことを、何よりも恐れているからだ。
止まれば、生産性が落ちる。
止まれば、他者に追い抜かれる。
止まれば、これまで見ないようにしてきた自分自身の「空虚さ」や「不安」と、直面せねばならぬからだ。
だが、道はそこからしか始まらぬ。
激流の中で、自らがどこにいるのか、どちらを向いているのかを知る者はおらぬ。
一度、岸に上がるのだ。
あるいは、流れの底にある、動かぬ岩に身を預けるのだ。
そして、ただ、流れていく雲を見る。
風の音を聞く。
自らの呼吸が、この身に出入りするのを感じる。
それは、世界の終わりではない。
そなたが、真に「今、ここ」を生き始める、その始まりである。
禅とは、特別な場所で行う特別な修行ではない。
この、絶え間なく移ろう現実の「只中」で、いかに惑わされず、自らの足で立つかという道である。
その第一歩が、「立ち止まる」勇気だ。
さて、そなたに問う。
そなたは今日、ただ呼吸するためだけに、一瞬でも立ち止まっただろうか。
あるいは、立ち止まることからさえも、目を背けてはいないか。
(第一回 了)
次回は、この「立ち止まる」ことから一歩進め、禅の根本である「ただ坐る」ことの意味を説こう。
九州・糸島に住む昭和77年8月21日生まれの青年。セネカや老子、石原裕次郎さんを愛好。


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