セネカの講義「生の短さについて」――現代を生きる君たちへ
第1回:我々は「生きていない」。ただ「多忙」なだけだ。
「知性の交差点」を訪れし諸君、歓迎する。私はルキウス・アンナエウス・セネカ。
これから全10回にわたり、諸君と共に「生」と「時間」という、人間にとって最も根源的かつ厄介な問題について考察を深めていきたい。
多くの人々が嘆く。「人生はあまりにも短い」と。まるで自然が我々を欺いたかのように不平をこぼす。だが、果たして本当にそうだろうか。
我々に与えられた生は、短くはない。むしろ、我々がその大半を浪費し、自ら短くしているのだ。
これが、我が著『生の短さについて』の核心である。我々が偉大な事業を成し遂げるために与えられた時間は、適切に配分されれば、十二分に広大である。
しかし、それが無駄遣いや怠惰によって流れ去り、何ら善き目的に捧げられぬ時、我々は最後の瞬間に至って初めて、自分が生きてきたことにも気づかぬまま、生が過ぎ去ったことを悟る。
問題は、生が短いことではない。我々が、あたかも無限に時間があるかのように振る舞い、最も価値ある「時間」という資産を、いかに安易に他者や雑事に明け渡しているか、という点にある。
諸君の生きる現代社会は、どうだろうか。
私が生きたローマの喧騒とは比較にならぬほど、諸君は「多忙」であろう。
手の中にある小さな板(スマートフォン)は、絶えず諸君の注意を奪い、世界中の出来事や他人の些細な日常を浴びせかける。
次から次へと流れてくる情報、終わりのない会議、SNSでの「いいね」の数に一喜一憂する時間。
それらは一見、何かを「している」ように見せかける。だが、その実、諸君は真に「自分自身の生」を生きているだろうか?
我が時代にも、他人の訴訟のために法廷を走り回り、権力者のご機嫌取りに朝から晩まで奔走し、自分の時間をすり減らす人々が多くいた。彼らはそれを「仕事」や「義務」と呼んだ。
諸君の「多忙」も、その実態は、他人の期待に応えるため、あるいは「何もしないこと」への恐怖から逃れるための「雑事(occupatio)」に過ぎないのではないか。
多くの人間は、金を貸すことは渋るが、自分の時間を他人に分け与えることには驚くほど寛大だ。時間は、一度失えば二度と取り戻せない唯一の資産であるというのに。
我々は「生きている(vivere)」のではない。ただ「存在している(esse)」だけになってはいないか。
風に翻弄される木の葉のように、ただ外部からの刺激に反応し、時間を浪費しているだけではないか。
生とは、単に呼吸をすることではない。真に「自分自身である」時間を過ごすことだ。
諸君への問い
講義の終わりに、一つ問いたい。
諸君は今日、どれだけの時間を「自分自身のために」使っただろうか?
そして、諸君が「多忙だ」と感じる時、その時間は果たして「未来の自分への投資」なのか、それとも単なる「浪費」に過ぎないのか。
まず、自分の時間がどこへ消えているのか、直視することから始めようではないか。
次回は、我々が時間を浪費してしまう最大の原因である「忘却」について語ろう。
九州・糸島に住む昭和77年8月21日生まれの青年。セネカや老子、石原裕次郎さんを愛好。


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