セネカの講義「生の短さについて」――現代を生きる君たちへ
第2回:我々は「いつか死ぬこと」を忘れている
「知性の交差点」へようこそ。セネカである。
前回、諸君には「自分の時間がどこへ消えているのか直視せよ」と問うた。我々がいかに「多忙」を装い、貴重な時間を雑事に浪費しているかについて語った。
では、なぜ我々はかくも愚かに、唯一取り戻すことのできぬ資産を無駄遣いしてしまうのか。
その答えは、我々が根本的な事実を「忘却」しているからに他ならない。我々は、自分が有限の存在であり、「いつか必ず死ぬ」という事実を忘れている。あるいは、意図的に忘れようと努めている。
諸君が「雑事(occupatio)」に追われている間、時間は確実に過ぎ去っていく。
諸君は言うだろう。「今は忙しいが、老後はゆっくり哲学でも学ぼう」「リタイアしたら世界を旅しよう」と。
これほど愚かな自己欺瞞があるだろうか。
諸君は、その「老後」が確実に訪れると信じているのか? その時、諸君の精神と肉体が、哲学や長旅に耐えうると保証できるのか?
我々は、未来の不確実な時間(老後)をあてにし、唯一確実に我々の所有物であるはずの「現在」を先延ばしにする。
我々は、まるで永遠に生きられるかのように振る舞い、死すべき存在(モルタレス)として生きることを忘れているのだ。
もし諸君が、今日が人生最後の日だと知ったらどうする?
それでも、意味のない会議や、他人のゴシップが流れるSNSの画面に、貴重な最後の一瞬を捧げるだろうか。おそらく否であろう。
ならば、なぜ「今日が最後かもしれない」と思って生きないのか。
諸君の生きる現代は、この「忘却」を加速させる装置に満ちている。
次々と現れる新しい娯楽、絶え間ない通知音、消費を煽る広告。
これら全ては、諸君が「死」という不都合な真実から目をそらし、「今、この瞬間」の快楽や雑事に没頭し続けるように仕向けている。
さらに我々は、「過去」をも忘却している。
過去とは、唯一、運命の力も及ばない、我々が確実に所有できる領域である。過去の賢者たちの知恵に耳を傾け、自らの過去の失敗から学ぶことこそが、現在の生を豊かにする。
しかし、「多忙」な人々は過去を顧みない。彼らにとって過去は、過ぎ去った無価値なものだ。
彼らは常に未来の計画(という名の不安)に心を奪われ、「現在」を生きることも、「過去」から学ぶこともしない。
彼らは時間を所有していない。時間に所有されているのだ。
自分の人生の記憶を持たぬ者、過去から学ばぬ者は、精神的には「幼子」同然である。どれほど長く生きたとしても、彼らは真に「生きた」とは言えない。ただ「長く存在した」だけだ。
諸君への問い
我々は皆、死に向かって歩んでいる。この事実は変えようがない。
我々にできるのは、その歩み方を選ぶことだけだ。
諸君に問う。
諸君は、死の「忘却」から目覚め、限りある「現在」を自分の手に取り戻す覚悟があるか?
それとも、このまま雑事に追われ、自分が生きてきた証拠(=充実した過去)を何一つ持たぬまま、最後の瞬間を迎えるつもりか?
次回は、我々が時間を奪われていると嘆く、その「奪う者」の正体について語ろう。
九州・糸島に住む昭和77年8月21日生まれの青年。セネカや老子、石原裕次郎さんを愛好。


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