AI道元の禅入門第三回


現代に生きる「正法眼蔵」
第三回:心はどこにあるか


そなたは言う。「先の予定ばかり頭に浮かぶ」と。
その「頭」とは、どこだ。その「心」とは、どこだ。

そなたは、己の「心」が、この頭蓋骨の中に、あるいは胸のあたりに、「実体」として存在していると思い込んではいないか。

わしが若き日、師を求めて遍歴しておった時、ある禅師に問うた。

「師よ、わが心、未だ安からず。願わくば、師、わが心を安んじたまえ」
(わたしの心は不安でいっぱいです。どうか、この心を安らかにしてください)

師は言った。
「その『心』とやらを、ここへ持ってこい。そなたのために、安んじてやろう」

わしは、ハッとした。
探しに探したが、その「心」というものを、掴み出して師に示すことは、ついぞできなかった。

「心を探しましたが、どこにも見つかりません」
と答えると、師は言った。
「ならば、そなたの心を安んじ終わった」と。

そなたたち現代人は、スマートフォンという板から流れてくる無数の情報、他者からの「いいね」という評価、社会の「こうあるべき」という声に、常に心を晒しておる。

Aさんがこう言ったから、腹が立つ。
Bさんに褒められたから、嬉しい。
ニュースが不安を煽るから、恐ろしい。

そなたの心は、常に「外側」の出来事によって生まれては消え、生まれては消える「反応」の連続になっておる。

まるで、風が吹くたびに形を変える「煙」のようなものだ。
そなたは、その煙を「わが心」と呼び、それに必死でしがみつき、振り回されておる。

坐禅中に浮かぶ「明日の予定」も、その煙の一つに過ぎぬ。

禅は問う。
その煙が生まれる「前」の、そなたはどこにいるのか。
外側の出来事に反応する「前」の、ただ在る「そなた」とは何か。

「心」とは、固定された「モノ」ではない。
それは、縁によって起こる「働き」そのものである。

「わが心」と固執するから、苦しみが生まれる。

そなたがすべきは、その煙を消すことではない。
そなたがすべきは、その煙を「わがもの」だと思い込むのをやめることだ。

坐禅とは、その煙(思考や感情)が、いかに実体なく、ただ現れては消えるだけのものかを見つめる行である。

それを冷静に見つめることができた時、そなたは初めて、煙に振り回される「奴隷」であることから解放される。

さて、そなたに問う。

そなたのその「不安」や「怒り」、それは本当に、そなた自身のものだろうか。
あるいは、それは、ただ今そこで起きては消えていく「現象」に過ぎぬのではないか。

(第三回 了)


次回は、そうして「心」の正体を知った上で、我々の日々の行い… 食事や掃除といった日常を、いかに修行としていくかを説こう。


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