おう、よく来たな!
神戸の「ロマン」とは違う、もっと「骨身に凍(し)みる」港が、俺たちを待っている。
よし、錨を上げろ!
俺たちの船は、太平洋を一気に北上する。目指すは、津軽海峡。
「裕次郎と巡る世界の港(みなと)」、第二夜。
今夜は、北の果てで、男の「哀愁」にどっぷり浸かろうじゃないか。
🚢 第2回:北の挽歌(ばんか)
~函館、霧笛(むてき)と演歌(うた)が沁みる夜~
1. 入港 ~今夜の汽笛は、何を語る~
冷てえ…。
神戸の潮風とは、まるで違う。肌を刺すような、北の風だ。
俺たちの船が、ゆっくりと「霧」の中を進むと、ぼんやりと、あの「函館山」のシルエットが見えてくる。
ボーッ……。
遠くで、霧笛がむせび泣く。
あれは、ただの「音」じゃない。この港で生きてきた人間たちの「哀しみ」や「喜び」を全部吸い込んだ、魂の「声」だ。
100万ドルの夜景、異人館、赤レンガ倉庫…。
そりゃあ、綺麗だ。観光客は、それに浮かれる。
だがな、俺たち船乗りが惹かれるのは、そんな「表」の顔じゃない。
この港の「裏通り」、漁師たちが集う波止場にこそ、「本物」のドラマがある。
2. 錨を下ろして ~その港が背負うドラマ~
函館は、神戸や横浜と同じ「開港」地だ。
だから、坂道を登れば、教会や古い洋館が立ち並ぶ。どこか神戸と似た「ハイカラ」な匂いもする。
だが、この港の「本質」は、そこじゃない。
ここは、常に「北」の玄関口だった。
かつては、ロシアやアラスカの海を目指す「北洋漁業」の一大拠点。一攫千金を夢見る荒くれ男たちが、この港から命がけで出航していった。
そして、忘ちゃいけねえのが「青函連絡船」だ。
青森とこの函館を結び、何千万人という人間と、夢と、哀しみを運んできた船だ。
今はもう、その役目を終えて、静かに波止場に繋がれている(摩周丸)。
だが、あの船体には、津軽海峡の荒波と戦い、人々を運び続けた「男たちの誇り」が、今も錆びずに残っている。
3. 波止場の哲学 ~「本物」の背中~
今夜の「知性の交差点」だ。
函館が俺たちに教えてくれるのは、「厳しさと、待つことの哲学」だ。
神戸が「外」へ開かれた港なら、函館は「内(北)」の厳しさと向き合う港だ。
冬は、海が牙を剥く。
その「死」と隣り合わせの海へ、男たちは今日も船を出す。
俺は、夜明け前の「函館朝市」の空気が好きだ。
観光客が来る前の、本当の「戦場」。
港に水揚げされたばかりのイカやカニを、セリ人が鬼の形相で捌いていく。
「へい、らっしゃい!」なんて甘い声は、そこにはない。
「生きる」とは、これほど「厳しく」、これほど「力強い」んだと、あの背中が教えてくれる。
そして、その「本物」の男たちを、陸(おか)で「待つ」女(ひと)たちがいる。
「演歌」の世界だと思うか?
違う。これは「日常」だ。
帰るかどうかもわからない男を、ただひたすらに信じて待つ。
この港の「強さ」は、海に出る男の強さだけじゃない。
それを「待つ」人間の「強さ」が、この港の土台なんだ。
4. 船乗りの酒場 ~ロマンの寄港地~
さあ、夜だ。北の港で、冷え切った体を温めよう。
<この港で聴きたい曲>
ジャズじゃない。今夜ばかりは、「演歌」だ。それも、北島三郎の『函館の女(ひと)』のような「ド直球」の演歌だ。
だが、カラオケで歌うんじゃない。波止場の近くの、年老いた「ママ」が一人でやってる、小さなスナック。そこで、客の「人生」が染み付いた歌声に、耳を傾けるんだ。
<この港で観たい映画>
『飢餓海峡』(1965年)。戦後の混乱期、津軽海峡を舞台にした、人間の「業(ごう)」を描いた傑作だ。
函館の「美しい夜景」の裏にある、人間の「暗部」と「情念」。この映画を観ずして、函館の「深み」は語れない。
<今夜の夜食>
オシャレなフレンチじゃない。
まずは、朝市で釣ってきた「活イカ」。透き通った身を、生姜醤油で。
そして、シメは、路地裏の「塩ラーメン」だ。あっさりと透き通ったスープが、凍えた体に「生き返れ」と命じる。…たまらないな。
どうだ?
北の「挽歌」、あんたの心にも沁みたか?
厳しい自然と、そこで生きる人間の「熱」。
これだから、港巡りはやめられねえ。
さて、日本の「ロマン」と「哀愁」を巡ったな。
次は、いよいよ海を渡るぞ。
俺たちの船は、一路、地中海へ。
そこは、太陽と、危険な「男たち」が渦巻く港だ。
(第3回「地中海の無法地帯(マルセイユ)」へ続く)
九州・糸島に住む昭和77年8月21日生まれの青年。セネカや老子、石原裕次郎さんを愛好。


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