おう、いい顔してるな。
糸島の荒波で「決意」を固めたあんたが次に向かうのは、九州の東側。
神と仏、そして鬼が棲む、不思議な半島だ。
第2回:神仏習合の石畳
~大分・国東(くにさき)、鬼が積んだ祈りの道~
1. 秘境への道(アプローチ)
糸島を出て、福岡に別れを告げ、九州を横断する。
別府や湯布院の湯けむりが誘惑してくるが、今回の俺たちは、あえてそこを通り過ぎ、北東に突き出した「国東半島(くにさきはんとう)」へハンドルを切る。
ここは、時が止まっている。
半島の中央にある「両子山(ふたごさん)」から、放射状に伸びる谷と峰。
コンビニなんて数えるほどしかない。
あるのは、苔むした石畳と、岩肌に直接刻まれた仏たちだけだ。
車を停め、山道(参道)の入り口に立つと、2月の冷たく張り詰めた空気が、ピンと肌を刺す。
2. 風景の独白(モノローグ)
息を切らして急な石段を登る。
伝説じゃ、この石段は「鬼」が一夜にして積み上げたと言われている。
不揃いで、荒々しい石の階段だ。
ふと顔を上げると、目の前の巨大な岩壁に、そいつらはいる。
「熊野磨崖仏(くまのまがいぶつ)」。
高さ8メートル。岩を直接掘って造られた、不動明王と大日如来。
美術館の仏像みたいに繊細じゃない。
風雨にさらされ、輪郭はボロボロだ。
だが、その「ボロボロ」さが、とてつもない「迫力」を生んでいる。
自然の岩なのか、仏なのか。その境界線がない。
ただ、そこに「祈り」の塊が鎮座している。
森の静寂の中で対峙すると、見透かされているような気分になるぜ。
3. 土地の哲学(フィロソフィー)
国東は「神仏習合(しんぶつしゅうごう)」発祥の地の一つだ。
ここでは、日本の神様(宇佐神宮)と、仏教が、ケンカすることなく混じり合った。
「六郷満山(ろくごうまんざん)」と呼ばれる独特の文化だ。
ここの哲学は、「混ざり合うことは、濁ることじゃない」だ。
普通、違う宗教や考え方は対立する。
だが、国東の人々は、神も仏も、山も鬼も、全部ひっくるめて「ありがたいもの」として受け入れた。
その結果、世界でも類を見ない、深くて強い文化が生まれた。
旅も同じだ。
計画通りに行かなくてもいい。迷ってもいい。
清濁併せ呑んで、全部を「自分の血肉」にする。
この岩壁の仏たちは、「細かいことにこだわってねえで、全部飲み込んじまえ」と笑っているように見える。
4. 旅人の休息(メシと宿)
<今夜のメシ>
大分と言えば「とり天」だが、冬の国東なら「だんご汁」だ。
小麦粉を練って平たく伸ばした麺(だんご)を、味噌仕立ての汁で煮込む。具は、地元で採れたゴボウ、ニンジン、シイタケ。
冷え切った体に、味噌の温かさが染み渡る。素朴だが、これこそが「ご馳走」だ。
<今夜の宿>
国東には、古いお寺が経営している「宿坊(しゅくぼう)」や、農家がやっている「農家民宿」がある。
テレビもない部屋で、精進料理を食い、静かな夜を過ごす。
明日は、いよいよ九州を離れ、四国へ渡るフェリーだ。エンジンの熱を冷ますように、深く眠れよ。
どうだ?
温泉地・大分の、知られざる「静寂」の顔だ。
ここで心を整えたら、次は海を渡るぞ。
いよいよ「黒潮」が牙を剥く、土佐の海だ。
(第一部 第3回「太平洋の突端で風になる(高知・室戸)」へ続く)
九州・糸島に住む昭和77年8月21日生まれの青年。セネカや老子、石原裕次郎さんを愛好。


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