うむ。そなたの心が、またわしの言葉を求める「空っぽ」の器になったようじゃな。
前回は、その「空っぽ(無)」こそが、そなたたちを生かしておるという話をした。
では、その「空っぽ」の器をもって、この騒がしいAIの時代を、具体的にどう生きていけばよいのか。
そなたたちは、「力み」を手放し、「緩みの境地」に至りたいと願っておる。
その、最高の「あり方」とは、どのようなものか。
今日は、わしの教えの中でも、最もよく知られておる「あれ」の話をしようかのう。
老子講義「道(タオ)とAI時代の無為」
第四回:上善(じょうぜん)は水の若(ごと)し — 変化の激しい時代を生きる
そなたたちの時代は、AIやらテクノロジーやらで、昨日までの常識が今日にはもう古くなる、激しい流れの中にあると聞く。
あまりの変化の速さに、そなたたちは必死に流れに逆らって泳ごうとし、力み、疲れ果てておる。
あるいは、流れに押し流されまいと、必死に「自分はこうだ」「こうあるべきだ」という硬い「岩」となって、歯を食いしばっておる。
じゃが、激流の中で「岩」であれば、どうなる? いつか砕け散るか、すり減ってしまうだけじゃ。
わしがそなたたちに勧めたいのは、「岩」になることではない。
その「流れ」そのものになることじゃ。
① 原典の言葉
「上善(じょうぜん)は水の若(ごと)し。
水は善く万物を利して而(しか)も争わず、
衆人の悪(にく)む所に処(お)る。
故に道に幾(ちか)し。」
(『老子』第八章より)
最高の「善」(というよりも、最高の「生き方」や「あり方」じゃな)は、水のようなものだ。
水は、あらゆるものに恵みを与え、命を育む。じゃが、決して見返りを求めたり、「わしのおかげだ」と威張ったりはせん。
水は、障害物があっても、それと無理に戦おうとはせん。「争わない」のじゃ。ただ、静かにそれを避け、回り込み、あるいは、満たして超えていくだけじゃ。
そして水は、人が皆行きたがる「高い」場所ではなく、誰もが嫌がる「低い」場所、「謙虚」な場所へと、ただ自然に流れていく。
この「争わず」「謙虚」である水のあり方こそ、わしが言う「道(タオ)」に最も近い生き方なのじゃ。
② 現代への敷衍(ふえん)
そなたたちの社会や、そなたたちが作り出したAIは、この「水」とは正反対の性質を持っておる。
そなたたちの社会は、「岩」であろうとすることを求める。
「明確なルール」「揺るがぬ規範」「高い目標」。
AIが導き出す「最適解」もまた、一つの「こうあるべき」という硬い枠組み(岩)じゃ。
そなたたちは、その「岩」にしがみつき、「岩」になろうとすることで、安心しようとしておる。
じゃが、考えてみるがよい。
変化の激しい時代に、その硬い「岩」は、本当にそなたを守ってくれるかのう?
わしが勧める「水」の生き方とは、こうじゃ。
第一に、「争わぬ」こと。
そなたたちは、AIよりも優れた人間であらねば、と力んでおる。他人よりも「いいね」を集めねば、と競争しておる。
水のように生きるとは、その土俵から降りることじゃ。
AIは計算が得意なら、させておけばよい。そなたは、そなたにしかできぬ「ただ、在る」ことをすればよい。
「正しさ」をめぐってSNSで「争う」のではなく、ただ、その流れを静かに受け流すことじゃ。
第二に、「形にこだわらぬ」こと。
AIによって仕事がなくなるかもしれん。新しい技術が暮らしを変える。
その時、「わしはこれしかできぬ」「昔はこうだった」と「岩」のように我を張れば、そなたは苦しむだけじゃ。
水は、丸い器に入れば丸くなり、四角い器に入れば四角くなる。
その場の変化に合わせて、しなやかに自分の「あり方」を変えていく。それが「緩みの境地」の実践じゃ。
そなたの本質(水であること)は、形を変えても失われはせん。
第三に、「低いところに処(お)る」こと。
そなたたちの社会は、誰もが「上」を目指す。より多くの富、より高い地位、より多くの注目。
じゃが、水は常に「下」へ、「下」へと流れる。
目立たず、威張らず、人々の嫌がる場所(謙虚な場所)にこそ、本当の豊かさ(万物を生かす力)は宿るのじゃ。
AIがどれほど賢くなろうとも、この「謙虚さ」の力、すなわち「利他」の心を持つことはできまい。
③ 読者への問い
そなたは今、人生という激しい流れの中で、必死に「岩」になろうとしておらんか?
「こうあるべきだ」というルールや、「自分はこうだ」というプライドで、自分自身をガチガチに固めてはおらんか?
さて、そなたに問おう。
そなたは、明日起こるかもしれない「変化」を、硬い「岩」のように跳ね返そうとしておるか?
それとも、「水」のように、その流れをしなやかに受け入れ、自らの形を変えてゆく覚悟があるかのう?
ふむ。
今日はここまでじゃ。
そなたのその痛む背中も、長年の力みも、「岩」であろうとした結果やもしれん。
少し、その力を抜いて、「水」になってみるがよい。
ただ、流れるにまかせてみるがよい。
また、そなたが「道」を求めて乾いた時、第五回を語ろうぞ。
九州・糸島に住む昭和77年8月21日生まれの青年。セネカや老子、石原裕次郎さんを愛好。


コメントを残す