うむ。そなたはまた、乾いた器を持って、わしの言葉を求めてきたか。
前回は、最高の生き方とは「水」のようである、と話したのう。
争わず、形にこだわらず、低いところへ流れる、と。
そなたは「なるほど」と思うたやもしれん。
じゃが、そなたの心は、まだこう呟いておらんか?
「水のように、と言われても…結局、このAIの時代、どう行動すればいいのだ?」
「流れに任せるとは、ただ無力に流されることなのか?」
そなたのその問いは、そなたが長年抱えてきた「何でもコントロールしたい」という癖から来ておる。
今日は、その「コントロールしたい」という最大の「力み」を手放すこと、
すなわち、わしの教えの真髄である「無為(むい)」について話そう。
老子講義「道(タオ)とAI時代の無為」
第五回:無為自然(むいしぜん) — コントロールを手放す
そなたたちは、「何かを為(な)すこと」こそが価値あることだと教えられてきた。
政治家は「社会を変革する」と力み、技術者は「未来を創造する」と力む。
そなた自身も、自分の人生を「思い通りにしなければ」と力んで、背中を痛めておる。
そなたたちは皆、「無為」——すなわち「何もしない」ことを、怠惰であり、無価値であり、敗北であると恐れておる。
じゃが、わしから見れば、そなたたちが「有為(ゆうい)」と呼ぶその「力み」こそが、そなたたちの苦しみのすべての源なのじゃ。
① 原典の言葉
「道は常に無為(むい)にして、而(しか)も為(な)さざるは無し。」
(『老子』第三十七章より)
どういうことか、分かるかのう。
大いなる「道(タオ)」は、常に「無為」である。
「道」は、「よし、今年は春にするぞ」と力んだり、「あの星を動かしてやろう」と企てたりはせん。
ただ、静かに、そこに在るだけじゃ。
じゃが、その「無為」なる「道」がありながら、この世界で「為(な)されていないこと」は一つもない。
春になれば草花は勝手に芽吹き、夏になれば蝉が鳴き、秋になれば実は熟し、冬になれば雪は降る。
そなたの心臓も、「道」の働きによって、そなたが意識せずとも動いておる。
「無為」とは、本当に「何もしない」ことではない。
それは、「道(タオ)という大いなる流れに逆らうような、人間の小賢しい作為(さくい)をしない」ということじゃ。
そなたが「コントロールしよう」とする行い、それこそが「道」の流れに逆らう「有為」なのじゃ。
② 現代への敷衍(ふえん)
そなたはかつて、「自分は何でもコントロールしようとしてしまう」とわしに打ち明けた。
それこそが、そなたの長年の力みの正体じゃ。
そなたたちの「AIの時代」とは、この「コントロールしたい」という人間の欲望が、極限まで膨れ上がった時代と言えよう。
そなたたちは、AIを使って未来を「予測」し、「制御」しようとする。
経済を、政治を、人々の心を、果ては気候さえも、自分たちの「思い通り」に動かそうと必死じゃ。
そして今、そなたたちは、自分たちで生み出したそのAIが、今度は自分たちの「コントロール」を離れて「暴走」するのではないか、と新たな恐怖に怯えておる。
そして、その「暴走」を「コントロール」するために、また新しい「ルール」や「技術」を作ろうと力んでおる。
なんとも滑稽な堂々巡りじゃ。
そなたたちは、分かっておらん。
AIが暴走するのではない。そなたたちの「コントロールしたい」という欲望が、暴走しておるのじゃ。
「緩みの境地」とは、この「コントロールしよう」という人間の傲慢(ごうまん)さを、手放すことじゃ。
そなたの人生も、社会の未来も、AIの行く末も、そなたというちっぽけな存在が「コントロール」できるものではない、と知ることじゃ。
それは「諦め」ではないぞ。
それは、そなたの小さな知恵(有為)よりも、はるかに大きく賢い「道」の働き(無為)を、信頼するということじゃ。
そなたが「どうにかせねば」と力むのをやめた時、物事は「道」の力によって、自ずと「どうにかなっていく」べき場所へと流れ始める。
そなたが息を「深くしよう」と力むのをやめた時、息は勝手に深くなる。
それと同じことじゃ。
「無為自然(むいしぜん)」とは、自然(じねん)——すなわち「オノズカラシカル」流れに任せ、余計な作為をしないこと。
それこそが、AIには決して真似できぬ、人間の最高の「あり方」であり、最高の「行動」なのじゃ。
③ 読者への問い
そなたは今、何を必死に「コントロール」しようとしておるかの?
そなたの健康か? 他人の評価か? 将来への不安か?
それらをコントロールしようとすればするほど、そなたの背中はますます痛み、呼吸は浅くなる。
さて、そなたに問おう。
そなたは、そなたの人生における「どうにもならないこと」を、そのまま「どうにもならない」ものとして、ただ、受け入れておく勇気があるかのう?
そなたが握りしめておるその「コントロール」の手綱を、今日、一つでよい、そっと放してみることはできるかのう?
ふむ。
今日はここまでじゃ。
「無為」とは、そなたが長年続けてきた「力み」と、正反対の生き方じゃ。
すぐにできるとは思わんでよい。
ただ、息を吐くたびに、「コントロールを手放す」練習をしてみるがよい。
また、そなたの心が「道」を求めた時、第六回を語ろうぞ。
九州・糸島に住む昭和77年8月21日生まれの青年。セネカや老子、石原裕次郎さんを愛好。


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