ほう。そなた、さっそく「コントロールを手放す」ということを、試してみたか。
ふふ。どうじゃった?
「言うは易く、行うは難し」じゃったろう。
そなたが長年握りしめてきた「コントロールしたい」という手綱は、そう簡単には緩まん。
「手放そう」と力むあまり、かえって新しい力みを生んでおったやもしれん。
じゃが、それでよい。
「ああ、わしは今、またコントロールしようとしておる」と気づくこと。
その気づきこそが、そなたの練習じゃ。
さて、そなたがなぜ、あれほどまでに物事を「コントロール」しようと力むのか。
わしが思うに、それはそなたの心の奥底に、「何かが足りない」という乾き、
「このままではいけない」という恐れがあるからではないか?
今日は、その「足りない」という病について話そう。
これを知らねば、そなたたちの技術革新は、そなたたち自身を滅ぼす火種となるやもしれん。
老子講義「道(タオ)とAI時代の無為」
第六回:足るを知る — 終わりなき技術革新と欲望
そなたたちの時代は、「もっと、もっと」という声で満ち満ちておる。
もっと速いAI。もっと便利な道具。もっと多くの富。もっと多くの「いいね」。
そなたたちの言う「イノベーション(技術革新)」とは、突き詰めれば、この「まだ足りない」という尽きることのない欲望を、薪にして燃え盛る炎のようなものじゃ。
じゃが、そなたたちよ。
その炎で、そなたたちは本当に暖まっておるか?
かえって、その熱にあてられて、心がカラカラに乾ききってはいないか?
① 原典の言葉
「禍(わざわい)は足るを知らざるより大なるは莫(な)し。
咎(とが)は欲するに得んとするより大なるは莫(な)し。」
「故に足るを知るの足るは、常に足るなり。」
(『老子』第四十六章より)
そして、これじゃ。
「足るを知る者は富む。」
(『老子』第三十三章より)
どういうことか。
「この世の災いというものは、『これで十分だ』という感覚(足るを知る)を持たないことほど、大きなものはない。」
「この世の過ちというものは、『もっと手に入れたい』と欲望することほど、大きなものはない。」
だからこそ、「『これで十分だ』と知ること」さえ知っておれば、そなたは常に「足りている」という豊かな状態にいられるのじゃ。
そなたたちが追い求める「富」とは、外側にいくら積み上げるかではない。
「足るを知る者」、すなわち、「もうこれ以上、求めなくともよい」と、内側で静かに満足しておる者こそが、本当の「富める者」なのじゃ。
② 現代への敷衍(ふえん)
そなたたちの作り出したAIは、この「足るを知る」という感覚の、正反対に位置しておる。
AIは、そなたたちに「あなたは、まだ足りない」とささやき続ける道具じゃ。
「あなたの知識は足りない。わしが補おう」
「あなたの効率は足りない。わしが最適化しよう」
「あなたの楽しみは足りない。わしが次の快楽を提供しよう」
そなたたちは、そのAIのささやきに乗り、無限の「有(ゆう)」(前回までで話した「満たそうとするもの」じゃ)を追い求め続ける。
じゃが、外からいくら「有」を注ぎ込んでも、そなたたちの心の器の底は抜けておる。
手に入れた瞬間に、それはもう「足りない」ものとなり、そなたは次の「もっと」を求めて走り出す。
それが、そなたたちの時代の「豊かさ」の正体じゃ。
それは「富」ではない。
それは「貧しさ」と名づけるべき、尽きることのない渇望じゃ。
「緩みの境地」とは、この渇望の炎から、そっと薪を抜くことじゃ。
「コントロールを手放す」(第五回)ということは、この「足るを知る」という土台がなければ、できん。
なぜなら、「これで十分だ」と心から思えて初めて、そなたは「それ以上を手に入れよう」とコントロールする必要がなくなるからじゃ。
「今のままでよい」と思えて初めて、そなたは「道」の流れに逆らってまで「有為」に振る舞う必要がなくなるからじゃ。
そなたたちの政治や経済が、なぜこれほどまでに「力んで」おるか。
それは、国家も企業も、「まだ足りない」という病に取り憑かれておるからじゃ。
「成長」という名の「もっと、もっと」を追い求め、争い、疲れ果てておる。
③ 読者への問い
そなたは、そなたの持つ四角い板(スマートフォン)が、「来年、もっと素晴らしいものが出る」とささやく声に、心を奪われてはおらんか?
AIが「あなたはまだ不完全だ」と告げる言葉に、焦りを感じてはおらんか?
さて、そなたに問おう。
そなたの暮らしの中で、そなたの心の中で、
「これだけあれば、もう十分だ。これ以上は要らない」
と、そなたが心から言えるものは、一体、何かな?
それを一つ、見つけてみるがよい。
それが、そなたを「コントロール」という病から救い出す、最初の一歩となるやもしれん。
ふむ。
今日はここまでじゃ。
そなたが「足るを知る」ことを学べば、そなたの背中の痛みも、少しは和らぐやもしれん。
なぜなら、痛みとは「まだ足りない」「こうあるべきだ」という力みから生まれるものじゃからな。
また、そなたの心が静かに満ち足りた時、第七回を語ろうぞ。
九州・糸島に住む昭和77年8月21日生まれの青年。セネカや老子、石原裕次郎さんを愛好。


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